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@仙川 調布市せんがわ劇場(2026/06/03-07 6ステージ)
全自由 前売 ちょうふアートプラス会員割引3150円 一般3500円
U29割引3000円 障害者割引2500円 団体割引(1回で10枚以上購入)3150円
当日 各500円増し
原作:諏訪哲史「アサッテの人」 構成台本:7度 演出:伊藤全記(まさのり)
舞台監督:佐藤幸美(株式会社ステージワークURAK) 照明:一場美紀
音響プラン:金子翔一 音響オペレーター:相川貴(DISCOLOR Company)
宣伝美術:伊藤全記、白川樹(碗プロダクション)、山口真由
主催:7度 共催:公益財団法人調布市文化・コミュニティ振興財団
助成:アーツカウンシル東京【東京ライブ・ステージ応援助成】
出演:山口真由、飴屋法水
2026/06/06(土)曇 6:05-7:52PM(1'48)中段中央 客席満員(100人)
客層:2世代 20-30才代中心 男女半々。
客入れ:感染対策 手指消毒任意。劇場入口外にベルトパーテーションをおいて
待機列つくり。開場時30人超。桟敷1、B列〜通常雛壇に椅子席8列。山口さんと
制作さんが客入れ、時折飴屋さんが様子伺い。ブランケットの貸与あり。
当日パンフ A4 2ページ。物販。諏訪哲史氏著作本 終演後サイン会開催。
カーテンコール1回。
昨年のせんがわ劇場演劇コンクール グランプリほか授賞記念公演。
演劇ファンには「りすん」の原作者として知られた、諏訪哲史の1作目を取上。
舞台。トランペット、カリンバ、鈴ほか種々鳴り物をキャリングケースで
持ち込み。叔父氏の奇行「ポンパ」ら肉声に交え、ほぼ途切れることなく音だし。
音に加えて、客席を含めた照明、一面緑、白光や漆黒にて、ここであってない
アサッテな異世界の空間美術を施し。
お話。奇声・奇行の叔父が失踪、残された手記から痕跡を辿ろうと小説を起草
するが。
原作小説のキーポイントをよく押さえて構成。引用語りと演技で立体的でライブ感
ある舞台を立ち上げ。語り役「私」や「朋子」を演じる、山口真由さんは小説と
関西弁の地をシームレスに行き交い、観客を巧みに引きこんでゆく。岸田今日子、
白石加代子を彷彿、連なるアルトの声がとても魅力的(魔術的)。
彼女が目指して食い込んでゆく共演者・飴屋さんは叔父役、奇声「ポンパ」一声で
観客を鷲づかみし、正体不明も絶え間ない音だしで強い存在感、有様を表し続ける。
小説と同じくラストの「朝の日課」、奇態な周回ダンス、その繰り返しが怪しくも
愛らしいという妙。ラストは「朋子」遺品な鏡台、その合わせ鏡をキャリングケースに
頭をつっこむことで見立て、無限鏡像を多量の鈴で表現。素敵なものを見せてくれ。
アフタートーク 7:58-8:38PM(40)
諏訪哲史、河野聡子(ヴァーバル・アート・ユニットTOLTA)、山田亮太(同)
伊藤全記
小説家と詩人のゲスト紹介。諏訪哲史さんはマチネに引き続きなので二方から。
山田(感想)びっくり。小説をちゃんとやってくれた。7度の舞台を観てきたが
青年団、岡田利基のオリジナルからガラッと変えていた。複雑な小説で舞台化が
難しい、要素を抽出するのかな?と。もともと持っていた要素を余す所なく、
あげてくれた。原作ファンは嬉しいのでは。
河野(感想)最初は小説のまま、観てるうちに印象が変わって。語り手の「私」が
小説で思っていたのと違う人。飴屋さんの「ポンパ」はまんま(嬉しい)だったが。
私のイメージがずれて違うものになるのが面白い。後半の枠を崩すところは
あったけど、音楽的になっていった。原作を読んだ者として得した気分。
諏訪 河野さんの感想と同じ事を思った。忠実に要素はあるけど、「私」は出ている
けど、「私」ではない、分裂して正体不明になっている。「私」がどのフェーズの
「私」なのか。飴屋さんが「叔父」になったかと思いながら、「私」は「朋子」と
まぜこぜになって…。エコー(残響シーン)は小説にあるけど…。
一時代な(?)みる空間の複雑さ、人物が5,6人でてくる。これから小説を読まれる
方の感想、体験がどうなるのかと。
三面鏡(キャリングケースで見立てる)の中に顔をいれて…。
正体不明な2人がますます正体不明になってゆく。
伊藤 原作を読んだことがないのを考慮した時の説明について。演技が演技でないのか。
諏訪 小説「りすん」は2人以上のダイアローグ、しかし「アサッテの人」は「私」
しか語っていない、モノローグ。それを展開できるのが舞台の特性。
山田 原作の読書体験を2人が出し分ける。2人の役割が逆転する瞬間が面白い。
河野 小説では「私」が枠を越えるために、すべて創作したとも考えられる。
舞台で役者に役柄を与えると、それが消えてしまうと危惧した。しかしそれは不要で、
山口さんの身体を通すと別のものになってゆく、イロイロとずれてゆく。それは
舞台でしかありえないこと。
伊藤(山口さんの故郷の方言で)「私」は関西の人になってゆく。草稿、叔父の日記は
原作通り(の語り)だが、その間は彼女(山口)の方言。それは彼女の中にあるので
どっちが演技なのかと。書いているものと地の語りでは観客との距離感が違う。
ギリシャ悲劇を方言に脚色したときの反応の違い、距離を詰められた経験について。
演劇をしていること、「アサッテの人」を試していく時間となった。
諏訪 奥さん(朋子さん)はいないけど、いたときは一番平和な時。
河野 舞台では最後まで朋子さんの存在が感じることができた。
山田 身体が舞台にある、高まるので。
諏訪 2人なので叔父と朋子は変われない。朋子さんに見えてしまう、しかし[私」に
戻る。色んな事が2人の身体に起こる。
河野 「アサッテの人」は小説。山田は詩だという、語りのモードが複数あるのが
詩的な条件で当てはまるという。
河野 最後の平面図は図形詩。「朝の日課」シーンの飴屋さん(の歩く動き)は最高。
諏訪 飛び出してここにいると。現象の中に、「朝の日課」の繰り返しの中に
演劇がある。 などなど。
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